Project Syndicate 2009年2月9日、Banks, States, and Financial Crisesの翻訳。
もし金融危機について知りたければ、入口として night_in_tunisia さんが訳した『金融危機を理解する』がおすすめ。分量は少ないけれど、「1.2 ヨーロッパとアメリカの歴史上の経済危機」あたりが内容的には重なる。PDFはこちら。
ハロルドさんはグローバリゼーションの終焉―大恐慌からの教訓(ただし2002年)という本も書いてます。レビューによると題名と内容があってないそうですが。ちなみに訳者は話題のタイラー・コーエン本の訳者。この本のアップデートがたぶんNBERにある「The Great Depression Analogy」(2009年)かなぁ(串を刺せばDLできる、ぼそ...)
たまたま、同じ日に optical_frog さんが訳していた『クルーグマン「ヨーロッパに学ぶ」』をあわせて読んだんだけど、なにかむくむくと感じるものがあったり(なかったり)したのが個人的には面白かったです。
銀行、国家、そして金融危機
ハロルド・ジェームズ
金融危機の最新局面 - つまり2008年9月にリーマンブラザーズが破綻してからの時期ということだが - は、銀行の大損害とその破綻への脅威が続いているのが特徴だ。この災害の規模は、小さな国が銀行を救済できるか本当に分からないくらい大きくなっている。
「小さい」という言葉の定義はいまだ変わり続けている。数ヶ月前、小さいのはアイスランドだった。それは次にはアイルランドに変わり、今ではイギリスを指すようになっている。金融危機の余波で、もっとも適切な金融関連法のありようだけでなく、もっとも適切な国家の規模まで問題になってきているのだ。
どんなものが最善の金融システムなのかは、これまでもずっとあやふやだったし、違ったかたちの金融制度(訳注: 法規)が競いあってきた。そのひとつは、個々の銀行は自らのリスクについては自らで判断すべしという考え(訳注1)。アメリカでは長いあいだ銀行とはこういうものと考えられてきた。この見解はアンドリュー・ジャクソン第7代大統領とニコラス・ビドル第二アメリカ合衆国銀行総裁との激しい争いの末にできあがったものだ。当時はポピュリズムが財政家を押さえこみ、その結果、19世紀のほとんどのあいだアメリカの銀行が支店を持つことはなかった。(訳注2)
訳注1: banks should be close to the risks that they must judge.
訳注2: このあたりの話は「Bank War(銀行戦争)」と呼ばれる。アメリカに連邦準備制度ができる前の話。まだ南北戦争もおきてない。当時のアメリカには今のような中央銀行は存在しなかった。第二アメリカ合衆国銀行は、民営ながら全国に支店がある唯一の銀行で金融システムに強大な影響力を持っていたらしい。これはジャクソン大統領とニコラス・ビドル総裁の政争でもあった。日本語なら野崎日記「米国国法銀行をめぐるリパブリカンとフェデラリスト(4)」がよいのではないだろうか。著者は今次の金融危機については「ハイパー・インフレ信者」みたいだし、他の記事もちょっと香ばしい感じだけど、歴史的事実のまとめはそれとは関係ないでしょうということで。他にはWikipediaの第二合衆国銀行(第二アメリカ合衆国銀行)とか。英語版を参照したほうが詳しいです。結局、第二アメリカ合衆国銀行はチャーターと呼ばれる特許状を更新してもらえず、1841年に廃業においこまれた。その結果比較的小さな銀行が乱立した状態だったんだと思う。これが次のカナダと対照的な点になる。
もうひとつの道、アメリカとは別の道を歩んだのがカナダである。カナダの制度は堅牢なイギリスのものに由来している。そこではアメリカと違って中央集権的な政治に対する懸念がずっと少なく、全国的な金融システムを許容する体制は整っていた。カナダはこの大金融システムによってリスクをより広く分散させ、1907年の金融パニックや1923年から1933年にかけての金融パニックをうまく乗りこえることができた。
大規模銀行主義には大きな魅力がふたつある。ひとつは規模が大きいほうがリスク管理効率が確実によくなるということ。大銀行は少数の顧客の影響ではびくともしない(対照的に、アメリカの地方銀行は農民の経済状態の影響を大きく受けた)からだ。もうひとつは、あらゆる方面への経済的長期戦略を立てる際、規模が大きい方が国内外関係なくずっと効率的にやれるという点。
とはいうものの、大銀行がトラブルをおこすこともある。それは上のリスク管理と戦略というふたつの法則がまぜこぜになってしまった時だ。大銀行がもっとも発展して頂点に達したのはヨーロッパで、ドイツはその代表格である。19世紀末、ドイツの一大金融システムは貿易から産業へとお金を動かすことで発達していた。
そのころ、各国はいたるところに現れた金融モデルに非常な関心の目をそそいでいた。1907年の金融危機の後、アメリカ議会は国家金融委員会(National Monetary Commission)を設置して世界中の金融システムを調べた。アメリカがもっとも関心を示し魅力的だと考えたのは、ドイツ式のユニバーサルバンク(訳注: 預金から証券、保険まで扱う総合金融機関)だった。当時、ドイツ式はロシア・日本・イタリア・エジプトだけが採用していたモデルだ。イギリスでさえ、1931年までにはドイツ式導入には抵抗できなくなった。イギリスは公式にマクミラン委員会(訳注: ケインズも委員だった)を設置、国内銀行がいかに産業の役に立っていないか、反対にドイツ式システムが貯蓄を産業融資にまわすしくみとしていかにうまく機能するかを示す証拠を集めてまわったのである。
大恐慌の結末は、このようなユニバーサルバンク方式の世界的普及であり、それは大勝利をおさめたようにみえた。マクミラン委員会の報告書が公表された1931年7月13日、その同じ日、ドイツでは最大の総合銀行ダルムシュタット銀行が破産したのは歴史の皮肉ではあるが。
しかし1990年代がくるころにはこの流れもおさまり、金融帝国の勢力拡大が20世紀末のグローバル化の原動力になっていた。大西洋をはさんで競争がおき、程度は小さいものの太平洋の両側でも競争がおこなわれるようになったのだ。
実際、膨大な可能性を秘めたヨーロッパの資本市場がだんだん統合され、吸収合併によって国境をまたいだ銀行ができていくのを見ると、あたかもヨーロッパ生まれの新しいスーパー銀行の出現を目にしているかのように感じる。同様に、日本では金融危機によって吸収合併がすすんで巨大な金融機関が誕生し、アメリカでも恐慌時代の金融業を規制するような法律のほとんどが廃止された。1994年から'95年のメキシコペソの通貨危機や、'97年から'98年のアジア金融危機がおきた後、最終的にアメリカは自国の新しい金融モデルを新興国へと輸出するような国になり、かなりの数のスペインとアメリカの銀行がラテンアメリカへと移っていっている。
このように魅力的な可能性は戦略的ビジョンに道を拓いた。それはロバート・ルービンの態度にはっきり見てとれるし、彼がすすめているようなものでもある。彼はまずクリントン政権で財務長官をつとめ、吸収合併で1998年にシティグループが誕生すると、この新しいアメリカ式大規模金融機関のアドバイザーとして働くようになった。
しかし、新しいスーパー銀行は業務が多岐にわたり複雑で、この弱点はぬぐいきれないほど染みついている。サブプライムローン問題が発生するずっと前、シティグループはロンドンの駐在員の行為で損失を出したことがある。ヨーロッパ政府の債券市場を操作しようとしたのだ。同様な問題は東京の駐在員でもおきていた。
同じ多国籍企業でも、それが製造業なら、製品の質をきちんとコントロールするのは簡単だ。しかしこれが金融仲介業だと、何百万もの判断がばらばらにおこなわれていて、それがからみあえば、企業全体が破産しかねないほど深刻な状況になりかねないのだ。
もし彼らの企業戦略が道を誤れば、そのしっぺ返しがはじまるだろう。歴史あるヨーロッパの中くらいの国でも、戦略ビジョンを立てて国内銀行を支援するようなことはできない。しかしアメリカにとってさえ、シティグループのビジネスプランと自国の世界イメージを重ねあわせるようなことは、ただただコストが大きすぎるばかりだ。金融危機のせいで銀行を国有化するような圧力が強まるのは危険でもあるのだ。もしそうなれば、政府は国有化した企業の戦略遂行を自らの義務のように考えるようになるだろうから。
ひとつの銀行が国や世界全体の経済的な運命を決めてしまうような戦略ビジョンは、中央集権的な計画経済(central economic planning)とおなじくらい欠陥を抱えたアイディアだ。この文脈では、2007年から2009年の資本主義は1989年から1991年の共産主義崩壊となんらかわらない状況に面しているとも言えるのである。
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